Activity2015年度の活動内容

北京理工大学に於ける「友愛講演会」奨学金対象感想文
受賞作品一挙掲載

北京理工大学に於ける「友愛講演会」奨学金対象感想文

充実した内容 格調の高さに驚嘆
「友愛」新しい活動の実践 真摯な態度に感動

国際交流事業の一環として平成27年度より「友愛講演会の開催」が盛り込まれた。第1回目は、北京市内にある北京理工大学の日本語学科の学生を対象に実施され、成功裡に終了した(第538号・平成27年11月号既報)
講演会に参加した学生から「あなたにとって友愛とは」の題で感想文を募ったところ、20数編が寄せられた。北京理工大学日本語学科の周教授、郭教授を始めとする教授陣の選考を受けた20編が友愛に届けられ、この20編を、理事・監事・評議員長を審査員とし、100点満点で採点。更に中国国際青年交流中心の王部長、羊課長の採点も加え厳正な審査が行われた。いずれの作品も素晴らしい出来映えで、審査員を大いに悩ませたが、結果6名の受賞者が選出された。今月号にて受賞作品6編(全て原文まま)を全て、選者鳩山由紀夫理事長、講演会講師川手正一郎常務理事の感想と共にご紹介いたします。次代を担う若人の考える「友愛」を是非ご覧いただきたい。
その内容の素晴らしさと、日本語の見事さに驚嘆されることと思う。掲載の6編の筆者には、4月9日、北京に於いて開催される表彰式で、友愛より奨学金と賞状・記念品が贈られる。

「私にとっての友愛とは」の選考を終えて

鳩山由紀夫

とても嬉しかったのです。とにかくとても嬉しかったのです。これが、北京理工大学の学生のみなさんが「私にとっての友愛とは」というタイトルで書いてくださった感想文を読んだ私の素直な気持ちでした。
それはみなさんが真剣に真面目に日本語を学んでいる姿が想像できたからでした。
日本と中国の政治的な環境は、必ずしも良好とは言えません。そして、その原因はどちらかと言えば、日本側が作っていると言わざるを得ません。このような時に、否、このような時だからこそ、中国で日本語を勉強してくれること自体が嬉しいことですし、しかもみなさんが、日本語を日本人と変わらないほど使いこなしていることに、非常に感動をいたしたのです。
多分、日本では中国語を学ぶ学生数が減少しているのではないかと思いますし、中国語を上手に使いこなせる人はかなり少なくなってきていると思います。日本は中国に、北京理工大学の学生のみなさんに学ぶべきでしょう。
その意味では、感想文を書いてくださったすべての学生さんに満点を上げたい思いでしたが、優劣を決めなければならないとのことで困りました。そこで私は、日本語としては若干無理がある表現を減点する方法で採点をいたしましたが、結果として多くの学生さんが高得点となり、中でも優秀な受賞者のみなさんは特別として、感想文を書いてくださった全員を入選にするようにいたしたのです。
私の採点が甘いのではないかとも思われるでしょうが、では実際に私が北京理工大学の学生さんのような作文を他言語で書けるかと問われると、首を振らざるを得ませんので、けっして甘く採点した訳ではないのです。
内容を拝見しますと、1位となった徐嘉熠さんの作文のように、多くのみなさんが川手常務理事など友愛の講義に、真剣に耳を傾けてくれたことが良く分かりました。また、友愛を単なる机上の概念で捉えるのではなく、自分の経験から理解しようとする姿勢が多く見られました。中には、人と人との友愛を超えて、自然の生き物や植物との友愛を書いた作文もありました。そうです、自然といかに共生していくかは、人間が抱えている地球上の最大のテーマと言えるでしょう。
私は感想文を書いた学生さんたちが、これからの長い人生を通じて、自ら描いた友愛の理念を活かしてくださることを大いに期待したいと思います。

感想文の選考にあたって

川手正一郎

感想文を読ませていただき、皆さんが日本語を深く理解されていること、語彙の豊かさと達者な日本語力に思わず感動し襟を正しました。
そして中国の若い人たちの進取の気象に心を打たれるとともに、私自身多くのことを学ばせていただきました。感想文を送って下さいました皆様に心から御礼申し上げます。
この度の友愛講話について、私は単に友愛という思想を伝えることでなく、私が過去培った友愛や中国に対する「私の思い」を、中国の若い人たちに少しでも理解していただくことを目的に、教室へ入りました。
私の心が中国の人たちにどのように伝わるのか、私の話法が理解されるのか若干の不安もありました。しかし聴講してくださる学生さんの中で、たとえ1人でも理解して下さる方が居れば、それで良い。まさに一期一会の心境でした。
また講話中、1人1人の輝く瞳をしっかり見詰め、この中の誰が解ってくれるのか、誰でも良い、私に与えられたチャンスをなんとしても活かしたい、そう願いました。今でもあの日の真剣な個々の眼差は忘れられません。
日本の書家、相田みつをさんの書に「その時の出会いが人生を根底から変えることがある」という詞があります。その言葉通り素晴しい皆さんとの出会いは、私の友愛観に強い自信と感動を与えてくれました。
私は63年前友愛を知り、友愛を行動に活かすことを念頭に今日に至りましたが、今思うに、北京でのあなたたちとの出会いは友愛を信じ、継続してきた我が人生最高の喜びであり、至福のひと時でした。そして私にとって友愛とは天命であると痛感した次第です。本当に有難うございました。尚、感想文の選考につきましては各委員とも大変ご苦労された結果ですので、ご高配の程お願い申し上げます。
友愛と中国の関係は1974年以来42年になりますが、このような機会を与えてくださいました北京理工大学と全青連の関係各位には、深甚なる敬意と謝意を表します。
日中友好は地道でひたむきな諸交流により徐々に浸透して往く、北京理工大学での友愛の講話もハチドリのひとしずくです。
しかし、感想文を読ませていただき、本気になれば道は拓ける。
「事は小なりと雖も為さざれば成らず(荀子)」
多忙な時間を裂き、聴講していただきました北京理工大学の皆さんが、折に触れ友愛を思い出し行動に活かしていただければ望外の幸せです。改めまして聴講いただきました北京理工大学の方々に感謝と御礼を申し上げます。

「私にとって友愛とは」受賞作品一挙掲載
北京理工大学日本語学科学生

第1位 徐嘉熠(4年)

「友愛は難しい」
と、初めて講座で「友愛」という言葉を聞いた時そう思った。
人々の信頼関係が弱い今の世の中、転んだお年寄りが助けてくれた人を逆に罪に陥れて賠償を請求するという話をよく耳にするし、子供や女性の誘拐の問題も深刻になっている。このような背景の中、知らない人に対して友愛を持つのは少し無理ではないかと思っていた。知らない人どころか、友達のあいだでもけんかするときがある。そして、マクロの視点から見ると、集団、あるいは国家の利益と個人の利益とのあいだに矛盾があるとき、友愛の方法は何だろうといろいろ考えた結果、冒頭の一言を思った。
しかし、今年川手さんの講演を聞いて、再び「友愛」について考えるようになった。もっとも印象深いのは川手さんが「自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は『出る釘は打たれる』式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛である。」とおっしゃった言葉である。つまり、友愛とは仲良くすることではなく、世の中にある矛盾の両者の行き過ぎを正すことではないかと思うようになった。
たとえば、人間自身にかかわる友愛から見ると、理性と感情を両方とも利用して、最後の判断を愛に任せることだと思う。人がひたすら感情に支配されると、動物と変わらない。まったく理性に任せるとロボットのようなものになる。友愛は理性と感情の行き過ぎを正す。具体的に、理性で人の需要を察し、感情で人の気持ちを理解しようとする。そして友愛は理性と感情を利用する上で、人に対して尊重と思いやりの気持ちを持つ。
しかし言うは簡単だが実際には容易ではない。1番手っ取り早いのは弱い人を助けることだが、それは本当の友愛ではないと思う。助けることが人を傷つけることもある。たとえば、映画『最強のふたり』の中、頸椎損傷で体が不自由な主人公が1人の黒人の介護者を雇った。その黒人を選んだ理由は「彼は常に当たり前のように私に携帯電話を渡すからだ。つまり私が体の不自由なことを忘れている。」ということである。主人公を患者として慎重に介護する人より、その黒人の介護者は友愛を果たしたと思う。
人はそれぞれ違う。その1人1人の個性を尊重し、また1人の人間として自分を知り、自分で運命を決め、責任を取ることから、友愛の形が見える。それは人間と人間の関係だけではなく、国と国の、また人間と周りの環境との関係でもあるのではないかと考える。
今、私にとっての友愛とは選択するときの判断基準であり、たゆまず努力して近づくべき理想の精神でもある。
私は今も友愛は難しいと思うが、それを実行していきたい。1人でも多く友愛を実行し、友愛の世界が見られるよう願っている。

2位 李雅婕(4年)

友愛とは人それぞれ異なる理解があるだろうが、私にとっての友愛は二人の祖父との話から見いだした。
今年80代である私の母方の祖父は昔、兵士であった。彼の心に深く傷をつけたその戦争で、私が大学で日本語を専門とすることがなかなか納得できない。
「日本語を専門としたら、仕事が見つかるの?」とおじいさんはいつも私の将来を心配している。彼の考えでは、日本語を勉強したら、世間から異様にみられる可能性がある。それで、どうしても日本語を勉強したいなら、もう1つの専門を専攻した方がよいと。
戦争は人の体に傷をつけるのみならず、精神及び心にも影響を与える。この傷は一生かかっても治せないといっても過言ではなかろう。
それに対して、私が高校2年生の時、あの世に行った父方のおじいさんは、70年前はまだ若い子であった。その頃のことをおじいさんに聞いたら、いつも同じエピソードを話してくれた。
「わしはね、日本語で1、2、3も数えられるんだ。これはね、わしが若い頃ある日本人の所から学んだんだよ。戦争中、皆怖くて昼もドアを閉めたまま家にずっと閉じこもっていたの。わしの家もそうだったが、ある日、ドンドンドンという声で、誰かわしの家のドアを叩いたんだ。1人で家にいたわしはあまりにも怖くてドアを開けなかった。向こうの人はそのままドンドンドンって10分ほど続けたんだ。幸いにわしのお母さんが戻ってきた。こわごわお母さんはドアを開けると、1人の日本人が外に立っていたんだ。」
その日から、その日本人は毎日おじいさんの家に来て、言葉が通じないにもかかわらずおじいさんとしゃべっていたらしい。それでおじいさんが数字を数えることが出来た。時々その人は飴をくれることもあったそうである。実に面白い人だったとおじいさんは言った。
「日本人はね、全部悪い人でもないよ。ほら、こういう人もいるじゃないか。」とおじいさんは言った。確かにその時、日本は戦争の代わりにこのように平和に一衣帯水の隣国である中国と交流をして来れば、今の中日関係はまた別の光景になったのであろう。
2人が私に伝えたのは、単なる記憶だけではなく、話の裏に込めていた私に対する愛も伝えてきた。私の進路を心配している祖父も、自分のエピソードを私とシェアするおじいさんも、異国にいた日本人も、愛を以て自分が実際に経験したことを人とシェアしている。このような交流が多ければ多い程人を尊重する、理解する、互いに助け合うことがしやすくなる。友愛の社会がこれで見えるのではないか。

2位 毛嘉怡(2年)

子供の頃から、1年に1度の運動会が好きで、始まるずっと前から楽しみにしていました。
運動会はよく「友情第1、試合第2」というスローガンが掲げられました。幼くて単純な子供にも、勝つことが大切ではなくて、相手に対して友愛の精神を持つことが大事だということは理解できました。つまり、試合の結果が思ったより悪くても、喧嘩をしてはいけないのです。そういう場合は、自分と相手の立場は異なるけれども、友愛の精神を発揮してお互いに肩をたたきながら、「よくガンバったね」と言うことが大事なのです。
私はその精神を大事にしながら成長しました。今の私にとって、友愛とは単に喧嘩しないということだけではなく、心を開いて周りの人達や見知らぬ他人を理解しようと努力し、共に幸せになれるような方法を見つけようとする態度だと思っています。それを実践するために、私は余暇を利用して、ボランティア活動に参加しています。
私達の大学の近くに、地方から出稼ぎに来ている家族の子弟のための小学校があります。私は昨年、週に1回そこで2年生の授業の手伝いをしました。
事前に教材を準備するのは大変でしたが、子供達の笑顔に接するのは楽しいことでした。
私のクラスに知的障害の子供がいました。ある時、その子供に質問をすると、彼女の答えを聞いた周りの生徒達は、馬鹿にするように囃し立て、彼女は泣き出してしまいました。私はただ、その生徒達の嘲笑を制止するのがやっとでした。後で、担任の先生に相談しましたが、先生も苦労しているようでした。私はとても悲しい気持ちになりました。この後、彼女は手先がとても器用で、上手に千羽鶴を折ることを知り、そのことをみんなの前で褒めてあげました。そして、クラスの生徒達に向かって、「もし、自分で彼女のような立場になったらどう思うか。彼女はこんなに上手に千羽鶴を折ることができます。誰でも、人間として他人より秀なところがあります。私達は、お互いに相手の良いところを認め合い、平等に接していかなければいけないのです。それが友愛の精神です。それを大事にしましょう」と語りかけました。2年生にとっては理解しにくかったかもしれませんが、その日から彼女をバカにするような態度は減っていきました。みんな落ち着いてほかの人の意見を聞くようになってきました。自分の授業が生徒達の心の成長に役立っていることがわかり、とてもうれしい気持ちでした。
私にとって、友愛の精神は人間の幸せと社会の発展、そして世界の平和に寄与するもので、とても大切にしなければいけないものです。
私はこれからも友愛の精神を大事にして、不幸な目に遭った人達に、心を開いて接して、暖かな雰囲気を周りに作って、皆に幸せをもたらすように努力しながら生きていきたいと思っています。

3位 張小潔(4年)

子供の頃、私たちは先生や、親に団結、友愛を教育された。その時の友愛は主に友達に対する愛情である。喧嘩は許さず、いい事を一緒に享受して、お互いに助けること。これは人間同士にとって当たり前のことだと思う。ではもし、相手が植物や動物なら、どうなるか。私にとっての友愛は人間はもちろん、もっと強調したいのは植物や動物など命があるものに対する愛情である。
幼い時のある日のこと。母が作ったご飯が多すぎたので、庭の予備木材を集めた一角にそれを置いた。しばらくして、母はご飯の方向を指さしながら小さな声で私に「見てごらん」と言った。見ると、一匹の白くて、小さいネズミがご飯を食べていた。ふわふわした口と一緒に動いた髭、白くて粘り気のあるご飯をつけていたピンクの鼻、太くてふんわりした体。圧倒的な可愛さで、私はすぐそのネズミを愛するようになった。もっと近くに移動し、ちゃんと見たかったが、私の存在を発見したネズミちゃんはすぐ逃げてしまった。太い体なのに、逃げる時は不思議にすばしこい。なぜ逃げるのかと自問したが答えが出ない。ネズミちゃんと親しくなれなくて、本当に残念だと思っている私の顔を見て、母は「動物はほとんど人間が怖いと思うよ、だから、もしちゃんと見たいなら、動物にあなたの存在を分からないようにしなさい」と言った。子供の私は分からなくて、動物と人類は友達になれるはずだ、なぜ動物は人間が怖いと思うのと思っていた。
小学生になり、私はやっと分かってくる。学校の中には鮮やかな花がいっぱいで、言葉では表せないほど美しい。放課後、同じクラスの梁さんは密かに赤いバラの花を摘みたがるのだ。まだ子供だから、力不足で、一気にバラを摘もうとしたができなかった。一部の花弁を落とされる赤いバラは命をかけても枝から離れたくないと言わんばかりだった。だが、梁さんは摘み取ろうとする。バラはそれでも敵に屈服しなかった。その時、私は胸がつぶれるほど心を痛み、自分がその赤いバラみたいな感じがした。そして、初めてクラスメートと喧嘩した。その赤いバラのために。
植物も動物も話せないので、自分の気持ちを言葉で私たち人間に伝えられないが、実際に彼らは他の方法で自分の考えと情緒を表すのだ。例えば、美味しいご飯を放棄しても逃げたいネズミちゃんと、命をかけても反抗したい赤いバラ。もしあなたが自分の心で聞けば、きっとネズミちゃんの怖い思いを聞くことができる。もしあなたが自分の心で見れば、きっと赤いバラの涙が見える。
私にとっての友愛は自分の心でこの世界を感じること。そして、愛すること。身近の人の心底の声を聞く。そして、命がある一切の物に対して愛情を持つ。命は美しくて、奇跡的なものと同時に脆弱なものであるので、大切にしなければならない。人間の命だけではなく、道端の白樺、山坂の小さな花、キャンパスの野良猫、軒の下に休んでいる雀、花壇の上でダンスする蝶々、川のそばで遊んでいる蟹など数え切れない命がある。こんなにも素晴らしい世界、こんなにも多様な生命に私たちは友愛の気持ちを持とう。そして、もっと美しい明日を作ろう。

3位 賈茹楠(4年)

初めて「友愛」という言葉を見た時、ただ単純の兄弟の愛であると思い、その中で含まった深い意味が理解しなかった。しかし、年をとりつつあり、交流範囲が広まったことに伴って、「友愛」にある美しさと広さを実感してきたのである。
「友愛」は、「友」と「愛」、2つの文字によって構成された。まずは「友」、つまり「友達」の「友」である。真の友愛精神は、身近な人に留まらず、他の人、且つ世界全人類を「友」にし愛し合うことは即ち「博愛」なのである。昔より、中国には「吾が老を老として、以て人の老に及ぼし、吾が幼を幼として、以て人の幼に及ぼさば、天下は掌にめぐらすべし」という名言があり、他の人も自分の親、自分の子、及び自分の兄弟として扱えば、博愛の精神が他人に影響を与え、やがてみんなが助け合う境界へ辿り着くということは、古代の聖人が望む理想の世界へ辿り着く。また、キリスト教には似ている教訓があるそうである。「友愛」は一人に限らなく、民族間の付き合いにも適用すると思う。愛を惜しげなく他人に伝わり、他の民族の人を自分との血の繋がりがあるように付き合えば、戦争などの悲しい争いが避けられ、世界は必ず愛が溢れるであろう。
「博愛」を含めている「友愛」の精神は、簡単になれるものではないと考える。私に言わせれば、一番重要なのは人と人の相互尊重なのである。世界中の70億の人々は、完全に同じであることは決してないゆえ、人々間の違い、つまり個性というものがある。尊重すべき対象は他の人の自分と異なるところである。中国の元総理・周恩来により「小異を残し大同につく」という主張がある。個性を尊重することを付き合いの前提とされ、両方とも平等的な位置につけ、この上には話し合える可能性がある。違いが避けられないからには、その違いがあることを認め、双方にある共同のところを探し出すことが賢い付き合い方であると思われる。尊重の土台を築き上げるこそ、相互理解でき、相互愛し合うことができるのである。
また、行動の角度から見れば、助け合うことは友愛精神を伝わる有力の手段である。愛があり、他人にその愛を感じさせるため、他人を助けることを通じて愛をこめた心の温度を他人に知らせる。電車の中で体の不自由な人に座を譲るだの、ホムレスの人に熱い飲み物を買うだの、このようなささやかなことこそ、積み上げるうちに、必ず社会に大きな影響を及ぼすであろう。助けられた方はその善意を受け止め、自分の心の中に残る暖かさを他人に伝わる。このようになれば、愛を広げる循環になり、みんなは他人を助けることを誇りである思うようになり、やがでいわゆる友愛、そして大同の世界になると確信している。
遠く昔の飛鳥時代、聖徳太子は「和を以て貴しとなす」を基準とし、「和」、即ち均衡と愛は日本人の基本的な精神の1つであると感じ、「友愛」の精神はその継承であると思う。友愛と博愛は柔軟な力であるが、これは武力などに敵わない力であると思われる。
1つ1つ小さな星が空に集まれば美しい銀河となり、小川が集まればやがて大河になる。友愛の精神もこのように、世界の小さな善意と愛を集め、やがて愛が溢れる世界になると、私は強く信じている。

3位 張亜男(4年)

「友愛」という言葉を聞いて人は、どんなことを思い浮かべるのだろうか。辞書の中には「兄弟または友人間の情愛」と説明しているが、私の心の中には、言葉より、具体的な場面が先に生き生きと浮かんできた。
子供の頃、横断歩道で困っていた私を見て、手を引いてくれた通りすがりのお姉ちゃん。冬のある日、校門の売店で暖かい焼きいもを買って、皆に配った小学校のクラスメート。旅行中楽しく話し合った観光客の外国人青年。道端でお腹が痛くてしゃがみ込んだ女の子を寮まで送った友達。このような場面はいつも私の心を暖かくさせる。年齢、男女、民族、国籍に関わらず、人と人はお互いに理解し、お互いに信頼し、自然に親しみを表すことこそは「友愛」と言えるだろう。
こういうように他人を愛する気持ちはいつから生まれたのだろうか。まだ幼かった私たちはおてんばで、蟻の穴を掘ったり、水をその穴に注ぎ込んだりして、気にもかけずにいろいろいたずらをしたのに、いつから蟻も命を持っているものだと分かったのだろうか。人間はまだ赤ちゃんの時、世界中で自分しか見えないという言い方がある。欲求が満足されたら笑う。欲求が満足されなかったら、必死に泣く。だが体の成長にともなって、頭も心も成長してゆくにつれて、他人も自分と同じように思想や感情があるものだとだんだん分かってくる。だから、他人が笑う時自分も嬉しく感じ、他人が泣く時自分も悲しく感じる。こういうふうに他人の感情を同じように感じるのは「友愛」の始まりだと思う。これは、「同情」ということである。
中国語には「感同身受」という熟語があり、日本語にも「身につまされる」という言葉がある。どちらも他人の苦しみ、悲しみなどをまるで自分の身に起こったことのように悲しく感じることだ。しかし、「同情」ということは本当に可能だろうかと私は疑っている。
「失意の胸へは/だれも踏み入ってはならない/自身が悩み苦しんだという/よほどの特権を持たずしては―」。これは米国の女性詩人の詩である。しかし災厄に遭って、家、家族、友人を失った人々の悲しい姿を見て、テレビの前の私たちも心が痛くなったのはなぜだろうか。恐らく皆はこの身で災難を受ける悲痛さが分かっているから、だから私たちも悲しく感じて、お互いに励ましたい、お互いに支え合いたいと思うのではないか。
先日のフランスのパリで起こったテロ事件には驚いた。世界各国の人々と一緒に「Pray for Paris」と共に、私は「友愛」が必要であることをいっそう信じるようになった。民族や国家の違いはもちろん、そもそも各個人はそれぞれ別々の存在である。もし他者に対し、同情ができないと、友愛もできない。そして、人を殺すなどというとても信じられない事件が起こる。決して安定したとは言えない今の世界の中で、友愛は友人間の情愛だけではなく、もっと広い範囲で考えるべき言葉だと思う。

友愛 活動詳細
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